#13 「ポコラートと表現と生き方の話」。 

アーツ千代田 3331というアートセンターが、末広町にある。旧練成中学校の校舎が活用され、文化芸術活動の拠点として、さらに地域交流の拠点として、広く人々に愛されてきた場だ。そのアーツ千代田 3331での活動の中に「ポコラート」という言葉が存在する。センターの立ち上げと同時に生まれた言葉で、ポコラートとは障がいの有無を問わず、人々が出会い、相互に影響し合う場の広い呼び名として使われている。そして、自由にアート作品を募集するポコラート全国公募は、毎回全国各地から1000点を越える作品が集まる。ただ、ポコラートという言葉を簡単に「障がい者アート」というものに紐づけてしまうことを、運営者は危惧してもいる。表現と作品に、“障がい”というフィルターは必要なのか。そういった私たちの足元に対する考えを、ポコラート事業に長年携わり、昨年のポコラート世界展「偶然と、必然と、」をご担当された、嘉納礼奈さんに伺った。

「ポコラート全国公募は、審査員が受賞作品を決めるだけでなく、来場者に作品を審査してもらう期間があります。展示会場の体育館には毎回1000点ほどの作品が集まるのですが、それを体育館にすべて並べるわけです。卒倒しそうなぐらいのパワーがあります。宇宙です。だからこの展示を見に来る人たちがいちばん多くて。一人10点、作品を選ぶのですが、1000点すべてを見ていると、創作に掛かったであろう濃密な時間というのが、湯気みたいに出ているんですよ。作品には番号だけが付いていて、個人情報や説明も一切隠して、作品だけで選ぶわけです。作品を選ぶ私たちも、試されます」

並べられている作品たちに、“障がい”というフィルターは一切かかっていない。作品の価値を判断するのは自分自身である。そして、こうした行為はポコラートの領域を越えて、私たちがどのように社会を生きていくべきか、ということにも直結する。と嘉納さんは話を続ける。 
 
「何も価値がついていない混沌の中で、何を自分が選ぶか。人間というのは、やっぱり価値付けられていないものが怖いんです。自分がどうしたらいいか分からない。だから、審査員によって太鼓判を押された作品ではなく、来場者が自分で作品を選ぶ場所というのは、人間にとってはすごく危うい場所です。そして、自分で価値を付けること、選択すること、ということを突き詰めて考えていくと、美術の話だけでもないんですよ。自分がどういうふうにモノを見ているか、人を見ているか、物事を見ているか。他人が良いと言っているから良いとは限らない。社会の中にある、既存の価値観を疑うこと。その方が実は市民意識の根幹というか、大事なことなのではないでしょうか。それを、ポコラートという存在を通して感じています」 
 
「簡単に、二項対立で何かを判断できないですよね‥‥」 
 
と、ぼくは絞り出した。嘉納さんは頷いてくれた。 
 
「かつて私は渡欧していたのですが、現地で美術を学んでから、文化人類学にも興味を持つようになりました。そこで気づいたんですけれど、ヨーロッパとは異なる日本の社会独特の価値観があって。それが、“健常”と“障がい”なんです。この二項対立や“健常”という表現は、ヨーロッパでは日本ほど顕著に見受けられない。10年ほど前から“アール・ブリュット”や、“アウトサイダー・アート”という言葉が日本に入ってくるようになりました。アール・ブリュットとはフランス人画家が提唱した言葉で、『専門的な美術教育を受けない人びとによる、自由で自発的な表現』という意味を指しています。アウトサイダー・アートも近い意味です。それが、日本ではアール・ブリュットが、『障がいのある方々の芸術』という捉え方をされるようになってしまった。福祉の分野で発信するイベントや展覧会では、障がいのある方々の権利や生活、創作活動を支援する目的があり、『障がいのある』という『作者の素性』は必要不可欠な前提事項と言えます。一方で、美術の文脈でそれらの作品や創作物を見る上で、そもそもその前提事項は適しているのかどうかと、疑問に思うんです」

「私が昨年担当したポコラート世界展のときも、障がいのある人、という形で元々紹介されている作家さんもいるのですが、私はそういう前提では見てもらいたくなくて。ですから、作家さんの中には障がいのある人もいれば、障がいのない人も、あるか分からない人も多くいました。厳密に考えてみれば、みなさんもそうだと思うんです。私たちがどのような障がいをどのように持っているのかって、ほんとうは厳密には分かりづらくて、曖昧な部分も多いわけじゃないですか。そもそも人間がそれを決めているわけで。だけど、展示を見に来てくださる一定数の方は、“障がい”と作品が、どう結びついているのかが気になってしまう。メディアの方にも、『この中に障がいのある方は何人いるのですか?』とよく聞かれました。分かりやすくなるからでしょうか。障がいのある人は何人とか、障がいのある人がどういう作品をつくるのかといったことが、理解する指標になってしまう。でも、その分かりやすさで見えなくなってしまうものもあるというか。分かりやすいことは分かった気にさせてくれます。作品を生み出す人たちを、障がいというごく一部の機能にフォーカスして語りきることができるのか。だから、そのことを伝えたくて、ポコラート世界展では障がいというニュアンスを最大限取り払い、作者たちの人生やその時間を過ごした環境などにフォーカスした展示にしました」

お話の後半、嘉納さんと仲良しだという古谷渉さんがやって来た。古谷さんは、10年と少し前に絵を描き始め、2016年のポコラート全国公募では、最終の審査委員による受賞作品に選ばれた。今もいくつかのコンテストに応募しながら、絵を描き続けている。ぼくも古谷さんの絵を見せてもらった。次から次に作品が出てきて、ひとつひとつ、つぶさに説明してもらった。嘉納さんが話を付け加えてくれた。 
 
「古谷さんは地元の就労移行支援事業所に通っているのですが、普段はひとりなので、コンテストの情報とかが分からないんです。だから、古谷さんが持って来てくれた作品を見て、ここに応募するのはどう? とか、結局はお茶を飲みながらのおしゃべりなんですけれど。仕事とは別でもあり、仕事の延長線上でもあり、私たちができる、創作する人へのサポートという感じです」

徹頭徹尾、嘉納さんのお話を聞いて、古谷さんの作品に触れて、どのように自分の考えをまとめられるだろうかと考えた。この一連の取材も“障がい”という言葉の括りの中にある。「障がいに関係する世界はこうだ」と伝えることで、逆説的に棲み分けの世界を助長していないか? 嘉納さんが仰った“健常”と“障がい”の二項対立を、自分で認めていないか? それでも“障がい”という言葉に向き合うなら、自分にはいったい何ができるか? 
 
嘉納さんに教わった話を、もう一度思い出す。まずは、“障がい”という言葉を疑ってみる。広辞苑には、障がいとは「心身の機能が十分に働かないこと」と書かれてある。それは、他者が安易に決めて使っていい言葉なのか? 幸せかどうかは自分の心が決めるのではないのか? 価値観は、日々の中でどうやったら変えられるのだろう。障がいということばを、出来るだけ使わずに表現したいのに、使わなければ伝わりづらいこと。その繰り返しは自分が無力に感じられること。けれど、そういう違和感をたぶん、嘉納さんは誰よりも分かっているのだと思う。嘉納さんは「分かりやすい世界」よりも、「分かりにくいことを理解しようとする世界」を求めている。だから、ぼくに真剣に話をしてくださった。 
 
突き詰めようとすれば、哲学みたいでちょっと頭が痛い。でも、「ほんとうにそれでいいのか?」と感じることがあったならば、堂々と声を上げていいと思った。そのときはきっと少数派である。忌み嫌われるかもしれない。「自分の考えを持とう」と決意表明すること。だが、それをしようとすると、常識から逸脱してしまうような感覚がある。価値観の前提そのものが、自分を縛っていることが嫌になる。その苦しいループを繰り返す。それでも、「分かりにくいことを理解しようとする世界」のことを考える。何事も判断をするのは、自分でなければならない。もっと頭を割りたい。考える人でありたい。ぼくにはまだ、こうした答えのない葛藤を、書き残すことしかできない。ポコラートのお話だったはずなのに、ポコラートを取り巻く、考え方や生き方の話になってしまった。でも、嘉納さんの言葉には、社会を射抜く矢のような鋭さがあった。ポコラートの話題を誰かとすることがあったら、話がずいぶん長くなりそうだ。

2022年7月12日 #13 「ポコラートと表現と生き方の話」。 写真と文章 仁科勝介(かつお)

取材ご協力 
アーツちよだ3331

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