#18 日曜青年教室。

戦時中に手作りされた点字図書

千代田区で月に2回開かれている、「日曜青年教室」にお伺いした。知的に障がいを抱える方が集まる場として、音楽、スポーツ、レクリエーション、宿泊学習‥‥多岐にわたるプログラムが行われている。昭和54年に始まって以来、青年教室の歴史は40年以上だ。 
 
今まで、えみふるさんを通して、障害者福祉に関わる現場をたくさん見学させていただいた。福祉について、教育について、毎回、気づかされるものがある。しかし、ちょっとした慣れもあって、日曜青年教室についても、福祉の分野などと似ているのではないか、という先入観があった。もちろん、ひと括りにまとめたい、という意味ではなくて、各々の場所で、真剣に活動に向き合っている方々を見ていると、福祉や教育としての思いや意義があり、そこにこそ熱意や温かみがあると感じていた。 
 
だからこそ、日曜青年教室はあたらしい出会いだった。ベクトルがほんの少しだけ違ったのだ。すなわち、「福祉」や「学校教育」という言葉から、わずかに距離をおく。そして、最も尊重される言葉は、「生涯学習」だった。その中には福祉などの意味が全く入っていないのか、と言われたら完全にノーとは言えないかもしれない。けれど、生涯学習とは何より、“自分の人生を豊かにするための学習”を指すのだ。

わたしたちが普段から日常的な趣味を持つように、生涯学習では、体験を大きく楽しみ、大きく喜ぶ。そこに付随するのは、シンプルに「生きること」や「楽しむこと」だ。社会でうまく生きるための学びの場、ではなく、自分の人生を豊かにするための時間を過ごす。目的の紐が、社会ではなく心とつながっている。その志を大切に、日曜青年教室は長い歴史を刻んできた。 
 
今回訪れた時間のプログラムは、絵画であった。絵画プログラムは年に一度とのこと。ぼくが訪れたときには、すでに参加者の方々は準備万端といった雰囲気が溢れていて、ボランティアの方々と、プログラムが始まるのを待っていた。 
 
そして、定刻に。絵の先生が二人お越しになられていて、自己紹介に盛大な拍手が送られる。長く付き合いのある先生とのことだったが、先生を温かく迎え入れる拍手の音は、大きくて純粋だ。先生から、今回のテーマのアドバイスが送られた。 
 
「テーマは“夏”です。夏らしく、空は青、ほかの色も鮮やかに。とにかく、画用紙いっぱいに描いてくださいね!」 
 
明るい先生の号令で、いよいよ始まった。参加者の方々は、画用紙に顔をじっと近づけたり、ぐーっと遠ざけたり。すぐに描き始めた人は、筆に一切の迷いがない。ぼくならどうしよう、ああしようと紙の上で筆を空振りさせてしまうけれど、そんな素振りは全くなく、清々しいくらい。

そして、描けないよ、という参加者さんや、じっとまだ動きのない参加者さんもいた。ぼくもそっち側の人間だし、気持ちは分かるなあ。でも、どうされるのだろうか、と様子を伺いたくなるタイミングで、そばにいたボランティアの方々が、無理に促すわけでもなく、どのような絵にするか、快活に提案をして、手伝ってあげたり、そっと見守ったり、つかず離れずの距離感で、参加者さんが絵を描き始めるサポートに徹していた。やがて、教室を眺めているうちに、ボランティアさんやスタッフの方々が、大きな心の支えとなっていることに気づいた。ボランティアさんは、参加者さんと同じく、年齢層はバラバラだ。ボランティアになって10年を軽く越える、ベテランの方もいらっしゃる。それでいて教室の場全体に、境界線みたいなものが存在していない。ひとつの大きな、仲のいい友だちの輪のような空間に包まれていたのだった。 

日曜青年教室をまとめる工藤さんにお話を伺った。「生涯学習を行う権利を行使して欲しい」という言葉が、ずんと心に響く。 
 
「年代を問わず、一緒に余暇活動を充実させることが、教室のいちばんの目的です。保護者さんの中には、『自分の子は障がいを持っていて、みなさんにお世話になっている』という言葉をいただくことがあるのですが、そんなことはないんです。生涯学習をすることは誰もが平等に持つ、自分たちの権利なんですね。どんな状況であろうとも、人としての心の豊かさを拡大していけば、普段の生活にも必ず良い影響が出るはずです。だから、遠慮なく来てくださいねと。『福祉の仕事ですよね』と言われることもありますが、それもちょっと違うんです。福祉ではなく、教育の一分野として、知的に障がいのある方が、一生涯に渡って、生涯学習をしていくんだ、という権利を行使する場なんです」 
 
その語尾の強さ、思いというものは、スタッフやボランティアの方々全体にも浸透していた。何よりみなさん、参加者の方々と、この場をたのしんでいた。ボランティアの方々に話を伺うと、口を揃えて「たのしい」という言葉を聞いた。そして、「元気をもらっている」と。お互いの明るい喜びが反射し合うことで、参加者のみなさんは、心からのびのびと、体験をたのしんでいるように感じられた。 

徐々に絵も出来上がっていった。色鮮やかで、まっすぐで、心から美しい絵ばかりだった。たとえばいい写真は、撮影者が純粋なままにシャッターを切っていて、まっすぐ届くようなものだと思う。ここで生まれた絵の数々も、参加者の方々の気持ちが、技巧や型ではなく、心のままに表れている。のびやかで、朗らかで、自然体だ。先生による講評も、嬉しい言葉が並んで、教室はまた盛大な拍手が起きた。ぼくはこの場にいることがどこか救われるようで、幸せであった。 

日曜青年教室のように、知的に障がいを持つ方の生涯学習の場は、多くの自治体で存在している。身近な方もいるだろうし、まったく関わりのない方もいるだろう。ぼくは今まで、後者だった。けれど、参加者の方と話をしていて、「青年教室の時間はたのしいですか?」と尋ねたとき、「たのしいです!」と間髪なく返事をもらった。ぼくはその瞬間、どこか自然と心が嬉しくなって、もう、他人事ではない、この嬉しさを心から消しちゃいけない、と思った。 
わたしたちは誰であれ、「生きる」という共通した行為を持っている。社会によってそれが制限されてはならないし、平等であるためにこそ、社会は存在すべきだと思う。そのことを考えるほど、日曜青年教室が千代田区に存在する意義は、とても大きいのだなあと感じるばかりであった。 
 
これからも月に2回、日曜青年教室は続いていく。それは、生きるという喜びを、心と心の会話を通して、広げていくことだ。今回出会った参加者のみなさんや、スタッフやボランティアの方々が、ふたたび集まって、笑って、またね、と手を振っている姿を、ぼくは想像する。喜びを持って生きることが、どれだけ素晴らしいことであるか。そして、出会ったみなさんのように、喜びを分かち合える人になろう、と自分にも声をかける。その先で、世の中の笑顔がひとつ、ふたつ、増えていくと思うから。 

2022年9月27日「#18 日曜青年教室」 写真と文章 仁科勝介(かつお)

取材ご協力 
日曜青年教室

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